長法寺・時の蔵 / 地域の歴史
別府と菊間をつないだ地域の歴史
― 佐方保・別府学校・越智卯三郎 ―

国恩寺(今治市大西町別府) 2017年撮影
現在の今治市大西町別府と菊間町。
今では別々の地域として認識されていますが、古い記録をたどると、現在の行政区分だけでは見えてこないつながりがあったことが分かります。
平安時代末期の記録に登場する「佐方保」、そして明治初期の学校教育。
別府・佐方・種の歴史をたどってみます。
寿永3年(1184)―「佐方保」の記録
平安時代末期の寿永3年(1184)の史料には、「佐方保」の名が確認されています。
『日本歴史地名大系』では、佐方保の範囲について、現在の菊間町佐方・種、大西町別府の三村、すなわち近世に『佐方郷』と呼ばれた地域であったと推定されています。
現在では「菊間町」と「大西町」に分かれていますが、古くは一つの地域的なまとまりとして捉えられていた時代がありました。
明治7年(1874)―別府・佐方・種をつないだ学校
明治7年(1874)には、別府・佐方・種の三村で共有していた郷倉に学校が置かれていた記録が残されています。
近代的な学校制度が始まったばかりの時代、地域の人々が既存の建物を利用しながら、子どもたちの学びの場を整えていった様子がうかがえます。
別府 ― 佐方 ― 種
国恩寺に開かれた「別府学校」

国恩寺(今治市大西町別府) 2017年撮影
同じ明治7年(1874)、別府の国恩寺には、佐方学校の分校として「別府学校」が開設されました。
明治初期には、寺院を学校の校舎として利用すること自体は全国的にも珍しいことではありませんでした。
ここで注目したいのは、現在の大西町別府に置かれた学校が、現在の菊間町佐方にあった学校の分校として始まっていることです。
現在の行政区分だけでは見えにくい、別府と菊間のつながりを示す記録の一つです。
明治9年(1876)―越智卯三郎と地域の教育
明治9年(1876)の記録には、別府学校では40人余りが学び、昼間に学ぶことのできない人のための夜学にも約30人が通っていたことが記されています。
また、別府村の組頭であった越智卯三郎が、別府学校の学費や維持費を負担していたとされています。
学校制度がまだ十分に整っていなかった時代、地域の教育が行政だけではなく、地域の人々によっても支えられていたことを伝える記録です。
今の地図だけでは見えない地域
現在の地図を見れば、別府は大西町、佐方・種は菊間町です。
しかし、平安時代末期から明治初期までの記録をたどってみると、そこには現在の行政区分だけでは見えてこない、人々の暮らしや学びのつながりがありました。
地域の境界は時代によって変わります。
けれど、人々が行き交い、助け合い、次の世代を育ててきた記憶は、古い記録の中に残っています。
今を生きる私たちも、そうした地域の記憶を少しずつ拾い、次の世代へ渡していければと思います。
年代一覧
寿永3年(1184)
「佐方保」の名が史料に確認される
明治7年(1874)
別府・佐方・種の三村共有の郷倉に学校が置かれる
明治7年(1874)
国恩寺に佐方学校の分校「別府学校」が開設される
明治9年(1876)
越智卯三郎が別府学校の学費・維持費を負担したと記録される
※越智卯三郎と、現在伝わる特定の越智家との系譜上の関係については、現時点では確認できていません。