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遍照院 歴代住職 ― 『菊間町誌』に残る中興以降の33世 ―
今治市菊間町の遍照院には、弘法大師の厄除け信仰とともに、幾世代にもわたって寺を守り伝えてきた僧侶の歴史があります。『菊間町誌』第三章「教育・宗教史」588〜590頁には、遍照院史料などをもとに編まれた「世代表」が掲載されています。本記事では、その記録に登場する中興第1世から第33世までを紹介します。
ここでいう「中興第1世」は、平安時代の開創伝承からの第1世ではありません。町誌では、中興以前に24世の僧がいたと伝える記述があり、中興後の世代を改めて数えています。個々の年号、在職や出身地の情報も、町誌掲載時の資料の記載であって、現在の寺院の公式な系譜を新たに確定したものではありません。
中興の記録
町誌の世代表の冒頭には、真慧(しんえ)上人が中興第1世として掲げられ、宝徳元年(1449)6月18日の入滅が記されています。町誌は、真慧を寺門再興に関わった人物と位置づけ、ここから後の世代を列記します。ただし創建に関する伝承と中興期の史料は成立時期や性格が異なるため、ひとつの連続した実証年代として扱いません。
『菊間町誌』に記された歴代住職
以下は町誌588〜590頁の「世代表」を読み取り、確認できた事項を選んでまとめたものです。空欄は「在任しなかった」という意味ではなく、今回の表から確認できた補足事項がないことを表します。寺号・戒名・俗名の字形には、後日原本との再校訂が必要な箇所があります。
世代・町誌の掲載名 | 記録される主な事項 |
|---|---|
中興第1世 | 宝徳元年(1449)6月18日入滅と記す |
第2世 | 享徳2年(1453)10月19日入滅と記す |
第3世 | ― |
第4世 | ― |
第5世 | 「祐珍とも書く」との注記 |
第6世 | ― |
第7世 | 永禄7年(1564)大三島の辻宮に関わる記録 |
第8世 | 天正4年(1576)加茂社心経会に関する記録 |
第9世 | ― |
第10世 | ― |
第11世 | ― |
第12世 | 元禄6年(1693)11月入滅。再興の記録にも名が見える |
第13世 | 山城国円楽寺との関係が記される |
第14世 | 正徳4年(1714)3月の入滅が記される |
第15世 | 宝暦2年(1752)10月卒、在職20年と記す |
第16世 | 元文4年(1739)卒と記す。前後の世代との年代関係は要検討 |
第17世 | 寛延3年(1750)9月卒と記す |
第18世 | 宝暦12年(1762)8月卒と記す |
第19世 | ― |
第20世 | 寛政12年(1800)8月寂と記す |
第21世 | 享和2年(1802)7月寂と記す |
第22世 | 文化14年(1817)5月の記載がある。死亡年とは断定しない |
第23世 | 文政5年(1822)3月入山。字は大超。献珠院より転住 |
第24世 | 天保3年(1832)2月入山、天保14年(1843)9月遷化と記す |
第25世 | 嘉永7年(1854)4月入滅と記す |
第26世 | 明治10年(1877)8月入滅と記す |
第27世 | 明治22年(1889)6月入滅、76歳と記す |
第28世 | 明治33年(1900)と記す |
第29世 | 明治36年(1903)7月没、79歳と記す |
第30世 | ― |
第31世 | 昭和5年(1930)入山、昭和46年(1971)1月2日示寂と記す |
第32世 | 昭和41年副住職、昭和46年住職、昭和51年(1976)3月14日示寂と記す |
第33世 | 「昭和51年3月現住」と町誌に記す(当時の記録) |
世代表を読む際の注意
資料には、正式な世代に含まない代務・兼務僧の記述もあります。これらを中興第1世〜第33世の番号に無理に組み入れず、別の記録として扱います。また、世代表には没年の並びが必ずしも代数順にならない箇所があります。寺務継承の実態や原文の年代には未解決の点があるため、推測して並べ替えません。『菊間町誌』588頁には括弧付きで「(第13世周応)」の記録がありますが、同頁に「正式に世代に入らない人 代務又は兼務」の注記があり、589頁の「第13世 貫線」とは別に扱っています。
献珠院から遍照院へ ― 第23世・実順
第23世実順の欄には、「文政5年3月入山」「字大超」「献珠院より転住」「周防大島の人」と記されています。現在はそれぞれ別に受け継がれる遍照院と献珠院の間で、実際に僧侶が移ったことを伝える具体的な記録です。実順の名は、文政9年(1826)の加茂神社関係の記録を修覆した人物としても見えます。寺院史料・神社関係資料を合わせて読むことで、僧侶が地域の歴史記録を引き継いでいたことがうかがえます。
寛應をめぐる資料
第15世寛應について、町誌は宝暦2年(1752)10月卒、在職20年と記します。献珠院に閑居したとする別の資料との関係は重要な検討課題です。ただし、町誌のこの世代表だけで献珠院での居住期間や順序を確定することはできません。追加資料を照合したうえで、今後の調査結果を追記します。
近代の継承
町誌には、第31世新田慈世、第32世瑞宣、第33世瑞興の入山・住職就任・示寂等が記録されています。「昭和51年3月現住」という表現は町誌の記述時点を示します。今日の住職名、歴代の最終代数、現行の寺務体制を示すものではありません。
参考資料と編集上の注記
主資料:『菊間町誌』第三章「教育・宗教史」588〜590頁「世代表」。町誌の印刷記録を基に、長法寺が要約・整理した記事です。原文書や過去帳の再調査を意味するものではありません。原表の「遍照院史料」「その他の史料」の区分をそのまま史実の確定度とみなしてはいません。町誌掲載の原写真・原文書写真の転載は行っていません。
関連する記録:『菊間町誌』590〜591頁「古文書」、591〜592頁の「法仏山略縁起」関係記述、593頁の由緒。
関連リンク
資料の読み方と未確認事項
第13世「貫線」と第27世「水口僊秀」は、『菊間町誌』589頁の印刷活字を再確認した表記です。寺院所蔵の原史料・過去帳による正式な法諱の確認は未了です。第15〜17世の没年の並び、第22世・第28世の年記の意味には未確認の点があり、推測で変更していません。