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真福寺 歴代住職

史料に残る法灯の記録

真福寺に伝わる史料・寺伝や『菊間町誌』などをもとに、現時点で確認できる歴代住職と寺の継承を記録しています。未確認の年代・代数については、今後の史料調査により追記します。

歴代住職の全系譜を確定したものではありません。確認できる人物と記録を、四つのまとまりに分けて紹介します。

一 真福寺の開創と再建

祐善上人

『菊間町案内記』には、文禄年間に祐善上人が岩ヶ森山麓に伽藍を建立したとの伝承が記されています。真福寺の創建に関わる人物として紹介し、代数は付していません。

宥俊上人

元禄年間の火災で伽藍を失った後、宥俊上人の代に現在地へ移して再建されたと伝えられています。ここでは、火災後の再建・移転に関わる人物として紹介します。

『菊間町誌』にも、創建の寺伝と、元禄年間の火災後に現在地へ移転・再建したとする記録が残されています。

参照:『菊間町案内記』、真福寺紹介ページ所載の『菊間町誌』第三章「教育・宗教史」604〜606頁の記録。

二 史料に残る歴代住職

『菊間町誌』には、「真福寺過去帳に同寺において入寂した住職を次のとおり記録している」として、次の住職が記されています。

入寂年月日 ― 以下の年月日は、同寺において入寂した住職の記録です。就任年月や在任開始年月ではありません。

その他、町誌に記録された住職

『菊間町誌』には「そのほか住職として在位の人に」として、次の名が記録されています。

在任期間や、確認できていない代数は推測していません。

真福寺第15世 古川泰雅

『菊間町誌』606頁には、明治7年に住職古川泰雅が出奔し、所在不明となったことが記されています。また、明治13年の照会に対し、中川村戸長・長野寛吾が、泰雅は真福寺第15世住職であったと証明した旨が記されています。

出典:『菊間町誌』第三章「教育・宗教史」605〜606頁。

町誌に記された近代の住職

『菊間町誌』の「最近では」に記載されている人物として、次の名があります。

「最近では」は町誌の記録当時の表現です。現在の住職や、在任期間を示すものとしては扱いません。

出典:『菊間町誌』第三章「教育・宗教史」605〜606頁。

三 近現代の継承

寺院関係者から確認できている、倉橋精勝から倉橋博隆を経て倉橋精隆へと続く継承を記録します。

倉橋精勝

真福寺の住職を務めました。ここでは、確認できていない代数や在任年月は記載していません。

倉橋博隆

倉橋精勝の後、まず真福寺を兼務し、その後、真福寺住職となりました。

倉橋博隆は平成30年(2018年)7月に遷化しました。

倉橋精隆

倉橋博隆の遷化後、兼務住職として真福寺を受け継いでいます。

四 長法寺とのつながり

長法寺の歴代住職記録には、次のように記されています。ここに示す代数は、長法寺での代数です。

これらは、真福寺と長法寺の間に住職・僧侶の人的なつながりがあったことを伝える記録です。

長法寺 歴代住職を見る →

石鎚信仰と真福寺

『菊間町誌』では、延宝4年5月、石鉄山登拝の先達所として東中予で63寺院が指定され、その名簿には、野間郡では中之川真福寺のみが記載されていると記されています。

また、同書には、古くから長者山に石鉄大権現が奉斎され、真福寺がその別当となっていたことも記録されています。ここでは、石鎚信仰と真福寺の関わりを伝える町誌の記述として紹介します。

出典:『菊間町誌』第三章「教育・宗教史」605〜606頁。

寺を受け継ぐ

真福寺は、代々の僧侶と、檀信徒・地域の人々によって受け継がれてきました。残された史料を確かめながら、その継承の記録を整理していきます。

史料について

本ページは、真福寺に伝わる資料、『菊間町誌』等をもとに、現時点で確認できる事項を掲載しています。歴代住職の代数・在任年代等については、今後の史料調査により追記・訂正する場合があります。

今回追加した歴代住職、古川泰雅、石鎚信仰の記述は、『菊間町誌』第三章「教育・宗教史」605〜606頁を参照箇所としています。入寂年月日は、同書605頁が紹介する『真福寺過去帳』の記録によります。過去帳原本は今回直接照合していません。

近現代の継承については、寺内記録および住職提供情報に基づいています。

『菊間町誌』資料案内 →

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